2008年 香港合宿の記憶 はじめに4(海外合宿の行先)
例年なら5月~7月に各部員がプレゼン形式で合宿の行先候補をプレゼン。
その中から行きたい所へ夏休み後半の9月に出かけるというのが合宿の行先の決め方なのだが、今回は違った。
新入部員の勧誘と親睦に力を入れすぎた為、行先のプレゼンなんかせず、
部室でダラダラと喋るだけという大学公認サークルにあるまじき活動を繰り返していた。
『部長、合宿どうするつもりなんやろ?』という視線を浴びながら、とうとう7月になってしまった。
7月になると前期テストが始まり部活動はいったん休止。9月の合宿は事実上、無理
ただ部長として何にも考えていないわけではない。
7月末に前期テスト打ち上げなるものが行われる。
そこには、例年、大半の部員が集まるので、そこで合宿の行先、決めちゃおうと思っていた。
人呼んで「酒の勢いで合宿の行先、決めちゃえ作戦」
(※部員半分くらいはお酒飲める年齢です)
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そして作戦決行の7月31日がやってきた。
メンバーは12人。なんとか作戦決行できそうだ
だが、いきなり出鼻をくじかれる。
作戦前日と当日に新入生1回生女子4人がドタキャン。2回生のほんわか系女子Iさんも急用で来れない。就活で一時帰国中の4回生Nさんも面接があり来れなくなった。
なんと直前で打ち上げ参加メンバーが12人から6人になるという有様。
残ったのは部長の僕、副部長Oさん、4回生Iさん、幽霊部員Tくん、新入部員のさわやか少年Hくん、同じくし新入部員の三回生Sくん。
こうなったらヤケクソ。
酒の勢いで合宿の行先は香港、大学の学祭期間10月30日出発が決定した。
2008年 香港合宿の記憶 はじめに3(復活の兆し)
絶望の新歓シーズンを終え、新入部員の足音も聞こえないまま気づいたらいゴールデンウィークも終わっていた。
でも僕は全然焦っていなかった。
なぜなら例年、体育会や有名サークルの勧誘が終わった後、だいたいゴールデンウィークくらいに、サークルに入るタイミングを逃した人や周りの友人がサークルの話一色になり焦ってる人が必ずやってくるからだ。
つまり、この時期に『大学デビューに失敗した新入生が、リア充生活に憧れて入部してくる!』
そう僕は読んでいた。
・・・・・
予想は的中
法学部のさわやか少年Hくんとハーフの土佐犬っぽい顔のM君
法学部の女子二人組NさんとSさん。
社会学部のインテリ系少年Tくん
文学部のオシャレ系女子TSさんと色黒女子TMさん
工学部のガリ勉男子W君
商学部の学祭委員にも所属する3回生S君
9人もガイダンスにやってくる大フィーバー
結局、法学部のさわやか少年Hくん、法学部の女子二人組NさんとSさん、文学部のオシャレ系女子TSさんと色黒女子TMさん、商学部の学祭委員にも所属する3回生S君の
6人が入部!
部員名簿上14人になり、なんかサークルっぽくなってきたぞ。
これで海外合宿にOさんと2人で行くのは回避できる!
まだまだこれは香港合宿の序章の序章に過ぎない。
2008年 香港合宿の記憶 はじめに2(絶望の新歓シーズン)
前回で気付いた方がいるかもしれないが…今回の旅行記は香港合宿行く前の人間模様に重きを置いた旅行記兼ドキュメンタリーなのです。
僕の代で『50年以上続いたサークルを滅亡させてしまうかもしれない』と悟った男の話をご覧あれ。
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部員が名簿上8人。ちゃんと活動に参加してくれそうなのが僕含めて二人…。
このままでは『工学部女子Oさんと二人で海外合宿へ行くことに』
『50年以上続いたサークルを滅亡させてしまうかもしれない』
そう思いつつ4月の新歓シーズンに突入。
何かしないといけないという思いから
まず僕は入学式から4日間だけ開かれる新歓イベントに参加することを決断。
何年かぶりに新歓ブースや勧誘用のチラシ800枚を用意して新入生が現れるのを待った。
1日目
工学部女子Oさんは所用があり2日目のみの参加。他の部員にも声をかけたが幽霊部員Tは『行けたら行きます』。アジア放浪女子Sさんはアジアから帰国したようだが原因不明の出来物が体中にできてるので欠席。ほんわか女子Iさんはメール無視。
ということで新歓ブースに僕一人。
他の新歓ブースが賑わう中、男一人、負のオーラを出しているブースに一新入生が現れる訳もなく1日目が終了した。
2日目
工学部女子Oさんが来てくれたことによって新入生が新歓ブースに現れるんじゃかいかと期待しつつブースで待つことに。
10時・・・12時・・・14時・・・16時・・・
この日もガイダンスブースに新入生は現れなかった。
3日目、4日目。
やっと。ほんわか系女子Iさんから返信があり・・・
Iさん『今日は誰が来るんですか?』
僕『僕一人ですよ』
Iさん『じゃあ、やめときます』
おいっ!!!来いやボケ!!!←心の声
結局3、4日目も誰も新入生は現れず・・・この春、新歓ブースには
誰1人として来なかった。
僕はせっかく作った新歓用チラシ800枚を
経済学部3階トイレのゴミ箱にこっそり捨てて帰った。
2008年 香港合宿の記憶 はじめに1(サークル存亡危機)
これは2008年10月30日から11月3日まで行われた香港合宿のお話である。
それでは合宿の半年前2008年4月1日に時を戻そう。
2007年夏に僕は某サークルの部長となり、秋に韓国合宿、冬、春休みと順調にサークルは活動を続けてきた。
4月以降もこんな感じでゆっくりまったりと時が進んでいくように見えた矢先、大学院1回生のOさんが某政令指定都市への就職が急遽決まり退学。また僕と同学年の工学部女子、Hさんが農業研究の為、国立のT大学へ4月から編入する事になった。
本来なら4月以降も活動の中心メンバーになる二人が急遽いなくなり、周りを見渡すと・・・4回生3人いるうち2人、HさんとNさんは中国と韓国へ留学中、もう一人のIさんは就活中で春学期は活動不参加予定。3回生は僕と工学部女子の副部長Oさんの2人。
2回生はアジア放浪中のsさん、幽霊部員のTくん、ほんわか女子のIさん。3人ともサークル活動には不定期参加…。
部員名簿には8人
えーと・・・まともに活動してくれる部員はそのうち2人…(自分含めて)
あっ、これ間違いなく廃部する流れじゃね???
欧州卒業旅行…史上最悪の9日間 最終夜
いよいよ、この史上最悪の卒業旅行も9日目、つまり最終日の朝を迎えた。
旅の良いところはいつもの現実世界から離れて、ちょっと違う世界を体験できるものだと僕は思う。
この旅が終わると、あと2週間で長い長い大学生活も終わり、僕は海運関係会社、同行人は病院に就職予定。またこんな風に旅なんかできるのかな?もしかしたら最後の旅になるかもしれない。そんな不安もありながらパリの街並みを目に収めようと車窓を眺めつつパリ・シャルルドゴール空港へ向かう。
乗る飛行機は19時40分のNH0206成田行。飛行機まで時間があるのでチェックインを一番で済ませた後、カフェで休憩をすることに。
ちなみに今日も同行人とは連絡事項以外で会話もない。約25万も払って俺は何しに来たんだろう?と自問自答していると同行人に
幸運が次々と舞い込んでくる。
まず一つ目がカフェの抽選でコーヒーカップが当たる。
僕はハズレ。
僕は『良かったね』と心のこもっていない言葉を言っていたら
突然アナウンスが流れ英語と日本語で『○○さん(同行人の名前)ANAのカウンターまでお越しください』
僕はピンときた。これは預入荷物の中にスプレーか何か入れてはいけないものを入れてたんで呼び出しが来たか、なにか忘れ物したんだろうな。席のグレードアップなら同時購入してる僕もアップグレードされるのが普通だからアップグレードはないな。
そんなことを色々、考えてると同行人が帰ってきた。
同行人『席、アップグレードしてくれるって!!!プレミアムエコノミー』
僕『えー良かったやん』
僕の心の声『なんでお前だけやねん!!!航空券かったの俺やのに!なんでや(怒)』
そして幸運というものは次々と襲ってくる。
またもカフェで待っている時に同行人の携帯電話に非表示の電話がかかってくる。
どうも日本からのようだ。同行人は席をハズレ、カフェの外で会話をしている。
5分か10分後、戻ってきた彼の一言は…
同行人『○○市の公務員試験受かったわ!!!』
僕『えー良かったやん(3回目)病院はやめるん?』
同行人『うん、そうやな』
なんで同行人に幸運が訪れて、僕には一切、良いことがないんだ。
ほんとにほんとに最悪な旅だったな。
PS.帰りの飛行機はほぼ満員。僕の座った中央の最後列の4人掛けシートだけ乗客がいなかったので4席フルに使って成田まで爆睡してやったぜ。これがこの旅の一番の幸運。
あとがき
今から約10年前の旅。最初に書きましたがフィクションも含まれますが、ほぼノンフィクションです(笑)
約25万も旅費を払いながら全然、楽しくない。この旅はほんとうに辛かった。
ノリだけで仲良くない知り合いと海外旅行なんていくもんじゃないな。といまだにトラウマになってます(笑)
ちなみに、この同行人とは卒業後1年後くらいに1度だけご飯食べただけ。まあ、そうなるわな。
さて次の旅行記は香港。
今話題の香港に2008年と2011年に2回行ってますが2008年のサークル合宿の香港編です。当時、書きかけで未完成の旅行記を加筆修正しながら載せていこうかな。
欧州卒業旅行…史上最悪の9日間 第8夜
いよいよパリ観光も最終日。明日にはパリを離れて帰路につく。
この日も別行動を選択した僕だが最終日の夕飯ぐらいは一緒に食べようと夕方18時にルーブル美術館の東の端で待ち合わせすることにした(こんな僕にでも、わずかに良心が残っていたんだな…)
この日もパリ観光を堪能
モナリザ (半年前に来た時には火炎瓶投げつける事件があって10メートル以上離れた位置からしか見れなかったが、だいぶ近づけるようになった)
オランジュリー美術館…めっちゃむかつくおっさんの絵ではなく
『新しき水先案内人ポール・ギョームの肖像byアメデオ・モディリアーニ』
ヴェルサイユ宮殿…人いっぱい。日本人のおば様が2人もスリ被害にあったと出口で騒いでたのが印象的。
さあ、ここからがこの日のハイライト
17時30分…僕は集合時間の30分も前にルーブル美術館の東の端にいた。
冒頭でも書いたように同行人と18時にルーブル美術館の東の端、リヴォリ通りで待ち合わせて夕飯を食べようということだった。ここならレストラン街にも近く便利だしホテルにも近い。
まだ3月で寒風が吹く中、集合時刻の18時になっても同行人が現れない。
???パリで迷ったか???
5分、10分と過ぎても現れないし、連絡もない。
18時30分、どうしようかと思っていた時に1通のメールが届く
『まだエッフェル塔の上にいるから30分くらい遅れる』
エッフェル塔???←なんでやねん!
30分くらい遅れる???←いつから数えて30分やねん。もう30分遅れてるっちゅうねん。ってかエッフェル塔からここまで絶対1時間かかるって。
怒りのあまり携帯電話に向かって関西弁もろだしでツッコんでしまった。
そして寒風吹く中、19時になっても同行人は現れない。
しょうがないので僕からなぜか精いっぱい冷静を装ってメールをする
『いまどこ?』
『まだエッフェル塔!』←おいっ、どういうことやねん。で…なんで『!』やねん、こっちがビックリやわ。
気温も下がり、お腹も空きだし、これはダメだ…と思い『お土産屋とか見とくから着く前に連絡ちょうだい』とメールして近くのカフェに避難。
軽くコーヒーを頼みつつ、同行人が着くまで待ることに。
20時15分にとメールが届き『着いた』←着く前に連絡しろっていったよな!んんん・・・もうぅっ!
急いでカフェを出て集合場所へ向かう。
そこには同行人の姿があった。
僕『ごめん。カフェでコーヒー飲んでたわ』
同行人『あ、そうなん。エッフェル塔すごい人やったわ』
僕『夕飯は?』
同行人『まだ食べてないで』
僕『じゃあ、その辺で食う?』
同行人『そうしよう』
ほぼ当時の会話を再現して見たが、おかしなことがあるのに気付いた人はいるかな?
何がおかしいって・・・
遅れた同行人が一切謝らずに何故か僕が謝っている事!!!
それに夕飯を食べてる時に気づいた僕は怒りを通り越し呆れてしまった。
普通の感覚であればめっちゃ謝るのが普通なのに一切、謝らない同行人。
『なんで、そんな奴と旅してるんだ俺は…』
ホテルに帰る道でそんなことばかり考えていたら、会話もなく、この日が終わった。
海外旅行の携帯電話事情
少し一息置かせてもらって今回は携帯電話の話
初めて海外行ったのは1996年のシンガポール、次は2004年のドイツへの修学旅行。
【KDDIスーパーワールドカード時代】
2004年には日本でも携帯電話が流通しだしていて僕もTU-KAユーザーの一人だった。ただ海外へ携帯を持っていく時代ではなかった。父親が海外旅行で使い切らなかったKDDIスーパーワールドカードで公衆電話から家に電話した記憶がかすかに残ってる。
2006年の台湾旅行でも持って行って、花蓮で携帯電話持ってる人に電話したりした。
ただこのカードは電話番号がめちゅくちゃ長くなってしまうのがよくない点。
【携帯レンタル時代】
この頃からインターネットが爆発的に普及した。台湾ではホテルへ予約FAXを送ったり、直接電話したりしてたのに2007年のアメリカではすべてインターネットで予約が可能に。それに伴って携帯を海外ヘ持っていくのもメジャーになっていく。
まだこの頃は、自分のを持っていくのではなく空港で借りていくスタイル。
番号も全然違う携帯電話で機能は電話だけ。2007年アメリカの時、借りたのは機種はBlackBerryのクソみたいな携帯電話だった。
2007年のアメリカと韓国はモベルという会社で借り、2008年には携帯機種もauのW42S変更したのでAUグローバルエキスパートのサービスでICカードを差し替えるだけで電話番号そのままに海外で電話がかけれるようになった。ただし貸してくれるGSM携帯電話はNOKIAの携帯でメールも英文字なのでできなかったと思われる
【携帯そのまま時代】
通信方式がCDMA、グローバルパスポート対応の機種に変更したことにより、海外へそのまま自分の携帯を持っていける時代に突入。2008年香港、2009年グアム、2010年韓国、2010年中国、2011年アメリカは自分の携帯電話をそのまま。2009年と2010年のヨーロッパはCDMAの対応地域外だったので、AUで機種レンタルする形だったがレンタル機種が日本製(たしかソニー)などのラインナップされ充実。メールも可能。当日空港カウンターで空いている機種を借りる形だった。
【スマートフォン時代】
2011年冬、とうとうスマホを購入。機種はGALAXY S II
そのまま海外で利用できインターネットも1日2,000円~3,000円で出来る今の旅行スタイルに近いものに。海外も街角で地球の歩き方や新個人旅行を開く必要がなくなったと思いきや、2012年アメリカ、2013年シンガポールと結局は紙の地図の方が使いやすくてスマホをほぼ使わず。
当時のスマホ最大の問題点がバッテリー問題。海外でGPSつなぎつつインターネットもバンバン使うと半日もしないうちにバッテリーが残りわずかに。予備バッテリーの充電速度にも問題があり、問題が多くスマホに頼らない旅行スタイルのままだった。
2016年ドバイ、2019年台湾、シンガポールと進むうちにスマホのバッテリー問題は飛躍的に向上。予備バッテリーも容量が大きくなり、充電速度もアップ。街角で紙の地図を見ながら(結局見るんかい!)スマホのGPSで自分の位置が間違いないかを確認。おなか減ったので近くのおいしい店を探そう!など気軽にスマホが使えるのは本当に便利。
さて今後は一体、どう海外旅行が進化していくのか。楽しみである。
逆に僕はインターネットも『地球の歩き方』もない時代に海外旅行へ行ってた人が羨ましい。何の情報もなくパスポートと身一つで未見の地に足を踏み入れるのだから。もうそんな事はできないんだよな~と感慨にふける今日この頃。
欧州卒業旅行…史上最悪の9日間 第7夜
あまり仲の良くない大学の友人とヨーロッパに卒業旅行で来たが7日目にして堪忍袋の緒が切れてしまう。
いったいどういう友人だったかは下記、ページ参照
まずはなぜ切れてしまったかの原因を書いていこう
【旅行前】
・ヨーロッパへ行きたいというに、ヨーロッパのどこへ行きたいというのは無い。
・日中はサークルで忙しかったのでスカイプで打合せするも時間に遅刻する。
・ホテルの予約から航空券、電車の予約まで全部、僕(慣れてるからいいんだけど…)
【旅行中】
・雛鳥のように後ろ付いてくるだけで僕より前を歩こうとしない
・受付などでの会話は全部、僕。
・会話が全く続かない(これは僕にも原因がある)
・全く主体的に動かない
・地図を見ない
・明日の打ち合わせをホテルでしたくても、風呂が長くて、すぐ寝る。
僕が大学4年間、旅行サークルにいて一つだけ悟った言葉
【旅行はどこへ行くかではなく誰と行くかが100倍、重要】
今までいろいろな人と旅行へ行ってきたが・・・
ここまで楽しくない旅行は初めてだった。
さすがに疲れ切っていた僕は一つの決断に至る。
別行動しよう
同行人は、別行動は嫌みたいな感じだったが有無を言わせず別行動することにした。
今思うと初海外のパリで英語も喋られない人間を放っておいて、一人でパリを観光するのだから僕は鬼畜である。
解放された僕は分かれて1分後には同行人の事なんて忘れてパリ観光を満喫。
サント・シャペル
ロダン美術館
夜、宿に戻ると同行人はすでに帰っていた。
どこ行ったか?と聞いても、ハッキリした答えが返ってこなかった。
『もしかして宿から出てない???』 と一瞬、頭によぎったが…この話を深く掘り下げてしまうと明日また一緒に行動しなくてはいけなくなる。
と思った僕は、話を無理矢理打ち切った。
やはり僕は鬼畜である。
欧州卒業旅行…史上最悪の9日間 第6夜
アムステルダムからパリ北駅に到着して、ホテルへ向かうことにする。
今回宿泊するホテルはRERのB線、Chartelet Les Halls駅のすぐ近く。ルーブル美術館も徒歩圏内の日本人経営ホテル。ホテルはかなり手狭でキレイとは言えない造りだったが、事前に下調べができていなかったので日本人オーナーにオススメの観光地を聞こうという思いから、このホテルに宿泊することになった。
(パリは半年前にサークルの先輩とある程度見て回ったので、行きたい所へはすでに行ってしまっているし…正直、行くところに困っていた)
荷物を置いてオーナーに凱旋門の中に入れるといった情報など得て、いざ出発・・・
あっ・・・・僕は完全に忘れていた。同行人がいることを・・・。
一昨日、昨日と僕が行きたい所へ行きまくっていたので…
僕の後ろを雛鳥のように付いてくるだけで、話しかけても気の利いた返事をする訳でもない同行人がいても気にならなかったが・・・
今日はとても気になるっていうか気に障る。
たぶん、この同行人はどこの駅で降りればいいか、どの道をいけばいいかというの何一つ考えてない。
僕は悪い人間なので凱旋門を見終わった後、少しフェイントをかけてみる。
ホテルがあるChartelet Les Halls駅に着いた時、わざど気付かないふりをして様子を見てみた。少しでも主体的に動く気があれば「降りる駅やで」とか「ホテルのある駅違う?」とか聞いてくるはず・・・
同行人はドアが開いたがぼーっと突っ立ている。
「駄目だこりゃ」
僕の中で何かが吹っ切れてしまった。
明日は別行動しよう。
欧州卒業旅行…史上最悪の9日間 第5夜(後編)
午前中にフェルメールとエッシャーで堪能した後、アムステルダムへ戻って、アムステルダム国立美術館へ
この美術館の目玉は2つ、レンブラントの夜警とフェルメールの牛乳を注ぐ女。
それだけに人気も高くて絵の前には人がたくさんいる。海外で絵の前に人が群がるのはを見るのはモナリザ以来だ。
一方、フェルメールの牛乳を注ぐ女は、日本の雑誌広告に2枚の絵を見比べてって書いてて有名なやつ。絵の前には行列が…と思いきや日本人が5、6人集まってるだけだった。(ロンドンやニューヨークでも町で日本人見かけないな~と思っていたけどフェルメールの絵の前にいけば必ず日本人と会えます)
その途中、昨日、アムステルダム駅に着いた時からずっと気になっていた臭いの原因が判明する。とある店から出てきた外国人が今まで以上に強烈な匂いを発していた。そのお店には『コーヒーショップ』と書かれていた
そうか・・・コーヒーの匂いだったのか!!!
違う違う。
オランダにおけるコーヒーショップ (Coffeeshop) とは、寛容政策(Gedoogbeleid)により、オランダアヘン法に従った一定の量の販売と所持が許可されているソフトドラッグの大麻を含む製品を、個人使用のために販売する小売店のことである。ウィキペディア(Wikipedia)
煙草をはるかに凌ぐ酷い匂いの原因は大麻だったんだ。
ちなみに日本人が海外だからって吸うのはダメですからね。注意してください。
この日は花市や昼の飾り窓などを巡ってスキポール空港の宿へ戻った。
明日は最終観光地のパリへ向かう
写真は特急タリス